「遊女」といえば貧しい家庭の娘がやむを得ず身体を売ったイメージが現代では強いが、もともとは世襲制の家業であり、遊女になれるのは遊女のイエに生まれた女性だけだった。時代によって異なるが遊女の仕事は多岐に渡り、宴の場を詩吟や舞いや管弦などによって盛り上げること、朝廷の行事での務め、旅人への宿の提供(必ずしも性交渉を含まない)などがあり、性売買がメインとは言えなかった(ただし鎌倉時代の後期頃から性売買に重きを置かれる傾向が強まった)。
仕事において高い教養を求められることも多く、そのため幼少期から書や和歌や漢籍や管弦などを習い身につけた遊女がかなり一般的だったものと思われる(もちろん全員ではないだろうが)。当時は読み書きのできる人さえ限られていたことを考えれば遊女はかなりのエリートだったと言えよう。遊女が酒席などで歌を詠んだ例や、貴族の男性が遊女を師と仰ぎ歌謡を習った例がある。
当時の遊女たちは自営業者であり、自ら仕事の裁量を握った。遊女のイエの家長は基本的に女性だった。母から娘へと技芸が伝えられ受け継がれた。遊女が家業であったので、遊女の夫や父母が遊女の仕事を支えた。遊女たち自身による職業組合のような集まりがあり、遊女たち自身によって仕事が管理された。
情勢は南北朝時代の動乱などの影響を受け15世紀頃から変わってきた。遊女たち自身によるネットワークが崩壊し、それまで遊女は世襲制であったところが、女衒の手配で貧しい家庭の娘が遊女として売りに出されるという形態が一般化してきた。現代の日本人が「遊女」と聞いて思い浮かべる遊女、江戸時代の𠮷原につながる遊女は、15世紀以降に一般化が進んだ形態である。もともとの遊女は自ら仕事の裁量を握り家長を務めていたことを考えれば、南北朝以前の遊女と吉原で酷使されていた遊女は全くの別物といえる。
これらのことからして、吉原の遊女を、伝統だの文化だのと言って持ち上げることには非常に疑問がある。
またこれは個人的な見解だが、遊女がかつて世襲制の家業として成り立った背景には日本に梅毒が存在しなかったこともあるのではないかと思う。日本に梅毒が入ってきたのは15世紀のことで、それより前の時代の遊女たちは梅毒を心配する必要がなかった。
【南北朝以前の遊女事情の参考でおすすめの書籍】
辻浩和著『中世の〈遊女〉ー生業と身分ー』
服藤早苗著『古代・中世の芸能と買売春ー遊行女婦から傾城へー』